エッセイ

 数年前、私はとある精神病院のデイケアに通っていた。ボランティアと称し、論文作成のための参与観察が目的だった。アルコールや薬物依存、統合失調症ほか、長期にわたる社会的入院のための病棟が立ち並んでいた。かなり高齢の方たちの姿が目立つ、へんぴな里山に古くからある病院だ。
何を観察したらいいのか? 正直なところ「何を」「どの視点から」見ていくか決めかね、「落ち着いてそこにいる」のに数か月を要した。デイに通ってくる人たちは、どちらかというと気のいい、おしゃべり好きが多く、カラオケや買い物にもつきあった。時には私に近づいてきて、問わず語りに、つらかったできごとを話してくれる人もいた。
ところが、である。慣れてきたころ、自分の中にある変化が起きているのに気づいた。疲労感が強くなり、熟睡できなくなった。デイへの行き帰りの足取りは重く、ひとりごとが頭の中で行きかうのを感じた。論文の構想にメドが立たず、成果をあげなければという焦りもあったのだろう。
 私は「彼らとは違う」、つまり「正常」であり「健康」だと思っていた。が、どうもそれが勘違いなのだと気づき始めていた。彼らとまったく同質なもの、つまり「異常」と烙印を押されているものが私の中にも確実にある。人は誰しも心に「闇」を抱えている、その「闇」がコントロールを失い「異常」なものとしてズルズルと引き出されてきた、とでも言ったらいいのだろうか。自分の中に起こりつつある化学反応のようなものにとまどった。
彼らは「病気」で、私はそうではないのか。「正常」と「異常」、「病気」と「健康」、それらに境界線はあるのか。あるとしたら? 「正常」と「異常」の壁は可視化しにくい分、分厚く高い。この壁を限られた時間ではあったが、越境できたのは私には貴重な体験だったと思う。自分自身の壁をとりのぞく作業は、常にアイデンティティの危うさを伴う。自由を獲得し、世界を広げる試みにつながったのではないかと確信しているのだが・・・。